利己的であれ

ついさっき「ボーはおそれている」を鑑賞して
色々と思ったことがあったのでブログにしてみる。

映画のネタバレ的な部分もあるので、もし観る予定の方はご注意ください。
「ヘレディタリー」「ミッドサマー」のアリアスター監督の
最凶最悪の里帰りムービーということだけど、
まず、そもそも当たり前の大前提をいえば、
ボーは帰らなくてよかったということを元も子もないけど言っておきたい。
謝る必要も理由を伝える必要もないということがまず始めの価値観としてにある。
また、この物語で弱虫は有罪というテーマがあって、裁判の結果は仕方がないと言えるけど
自由になるという選択肢自体がもう見えなくなってしまった人はまるで自分で選んでいるかのように糸に操られ地獄に自分の足で向かっていくということが現実でもよくある。
物語を俯瞰で見ると、観客は終始母親に壊されてしまった一人の人間のあいまいで狂った認知で見る世界を一緒に進んでいきます。
父親が話しかけてきた時に足につけられている発信機を見て逃げるように去っていくのは
常にボーが監視されていて近づくことができなかったことを父は知っていていつもチャンスを窺っていたのだろうから、父親もまたやむを得ないとはいえ弱虫だったのだろう。
全ての元凶である母親が、主人公である息子が自分と距離をおこうとしていることに気がついて
メイドを自分の身代わりに殺してまで息子の愛情を試すことからも
手段を選ばない方法で同じようなことを繰り返されて支配されてきたのだろうと読み取れる。
屋根裏部屋には父親ではなくボーの父性と勇気のある自分の一部のメタファーであって、
虐待によって主人公は屋根裏部屋に残して鍵をかけられてきたことを表している。
認知の歪みがなければ、セラピーと冒頭の母親からの電話の段階で
今自分の周りにいる人間がやばいことはすぐわかると思うんだけど・・

上記のような映画を見ていて、最近のある子供のことを思い出した。
それでこのブログを書こうと思ったのだ。
あの日、病院の待合室でなぜか私に触れそうなほど近くに座る子供がいた
ヘッドフォンをつけていたからそれまでの会話は聞いていなかったけど
不思議に思ってノイキャンをオフにしたらその子供の向こう側に座っている母親がネチネチと何かを子供に言っているようだった。
話を読み取るに、おもらしをしてしまったことを執拗に攻めて人格を否定し続けているようだった。
ちらっと覗くと、ズボンは確かに少し汚れたままだった。
とにかくひたすら嫌味や意地悪なことを言いながら時々太ももや頬をつねったりもしていて、
それがその日だけではなくとてもやりなれた日常的な状態ということがわかると
私の体が硬直して母親を罵倒しながら張り倒してやりたい気持ちに震えた
でもこの場で軽い気持ちで注意したってあとで子供が見えないところでもっといじめられるのは目に見えているしなんの解決にもならないことが私を理性的(?)にさせたのだった。
頭をフル稼働させたけど、結局その場での最適な解決法が思いつかず、
私はほんの少しだけ私の体に触れるように座っているその子の温かさに全力で愛情と激励と申し訳ない気持ちを送りながら
受付に呼び出されて去っていくまで体が固まったまま地蔵になっていた。
あの子が何とか大人になって、どこかでこういった映画や私のブログなどを見る機会があったら可能性に気がついて欲しいなと思ったのだった。

大人になった君が罪悪感で窒息する前に、自分の人生を自分で生きるために
勇気をもって利己的になる方法を学ぶ必要がある。

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